無謀な試みー1:大宅ノンフィクション賞への投稿


さて、世の中の文学賞あるいは文芸賞を調べてみると、原稿の段階で応募可能などというのは、ほとんど 無い。ほとんどは既に出版された本が選考対象である。仮に原稿が対象となっていても、手ごろな分量というものがある。私の場合、原稿が三十万字を越える。これは全くの論外である。普通は原稿用紙で百枚程度が限度である。そうであろう。読む方が大変である。仕事とはいえ、下手な長い文章を読まねばならない程の苦痛は他にない。原稿は短いに限るのである。
唯一、長さ三十万字の原稿という条件でも応募可能な賞は、大宅ノンフィクション賞だけである。よし、これにしよう。大宅壮一と言えば、大昔、三校の寮歌を呻吟する姿をテレビで眺めて以来、その文章を時には目にした方でもある。
ホームページに大宅賞の応募要項は掲載されているが、少し簡単なので念の為にメイルで問い合わせをしてみると、次の返事が戻って来た。

    2006年10月17日
    拝復

    日頃よりのご愛顧誠にありがとうございます。

    お尋ねの大宅賞につきましてお返事申し上げます。
    大宅賞につきましては、誌上などでの応募原稿のお知らせはいたしておりませんので、弊社のホームページよりご覧ください。

    http://www.bunshun.co.jp/award/index.htm

    よろしくご健闘の上、ご応募お待ちしております。

    財団法人 日本文学振興会
    大宅賞係

文面によれば、ご健闘の上、ご応募をお待ちしてくれているというのである。有り難い事だ。でも何故、私が問い合わせをしたかと言えば、原稿の送付先が掲載されていないから、わざわざ質問したのである。これから見ると、封筒の上に「財団法人 日本文学振興会 大宅賞係」とだけ書けば、届くのかも知れない。いや、原稿応募などという事をする怖いもの知らずは世の中にいないのかもしれない。それとも、原稿応募をするような人は、どこへ送ったらいいか位は、当然のごとく知っているという事かもしれない。こちらは、とにかく原稿応募は初めての経験なので、念には念を入れて、送り先を、再度質問する。

    2006年10月17日
    財団法人 日本文学振興会
    大宅賞係 殿

    早速の回答ありがとうございました。ホームページ上から引用した下記の内容と思います。原稿の送付先は、指定ページとは別ページに記載されております下記あて先でよろしいでしょうか。

    郵便番号102-0094
    千代田区紀尾井町3-23 文藝春秋ビル内

    どうぞよろしくお願い致します。

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    大宅壮一氏の半世紀にわたるマスコミ活動を記念して制定された賞。この賞はノンフィクション分野における"芥川・直木賞" をめざすもので、新しいノンフィクション作家の登場を促すとともに、すぐれた作品を広く世に紹介することを目的とする。正賞は100万円、副賞は日本航空による国際線往復航空券。 内容はルポルタ−ジュ・内幕もの・旅行記・伝記・戦記・ドキュメンタリ−等のいずれかに包括されるノンフィクション作品全般。枚数制限はなく、1月1日〜12月末までに公表もしくは応募された原稿が対象。 選考会は4月中旬、贈呈式は6月中旬(松本清張賞と合同)。作品は「文藝春秋」6月号に掲載。選考委員は猪瀬直樹・関川夏央・立花隆・西木正明・藤原作弥・柳田邦男の各氏。
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上の問い合わせメイルの解説をしておこう。指定されたホームページには、大宅賞についての概略説明はあるが、住所は書いてないのである。
いったいこれだけの内容で、どこへ原稿を送れば良いというのであろう。これはごく自然な疑問なのである。問い合わせメイルに記した文芸春秋ビルの住所をWEBページ内で探索する事だけでも、なかなかの労力を必要とした。
すぐに返事が来た。

    2006年10月18日
    拝復

    宛先につきましては、住所は下記のところで結構でございます。

    財団法人 日本文学振興会
    大宅賞係 宛て

    にてお送り下さい。

    よろしくお願いします。

    財団法人 日本文学振興会

    大宅賞係

これでようやく原稿の送付先がはっきりとわかった。今後は、私のような迷える恐れ知らずの為にも、どうかきちんと宛先位は明記しておいてほしい。

その後:
11月9日は大塚楠緒子女史の命日である。分厚い私の原稿は、その日に配達記録を使って投稿された。
2006年度の大宅賞は題名からして魅力ある作品を書かれたお二方に贈られた。分量、作品の構成、文章の持つ力などから考えて、私の応募作が、予選の下読みの下請けあたりの段階で刎ねられた事は容易に推測できる。