漱石が見た風景ーー団子坂ーー菊人形


○ 『三四郎』の中で、広田先生の一行は団子坂の菊人形見物に出掛ける。

    坂の上から見ると、坂は曲つてゐる。刀の切先の様である。幅は無論狭い。右側の二階建が左側の高い小屋の前を半分遮ぎつてゐる。其後には又高い幟(のぼり)が何本となく立ててある。人は急に谷底へ落ち込む様に思はれる。其落ち込むものが、這い上がるものと入り乱れて、路一杯に塞がつてゐるから、谷の底にあたる所は幅をつくして異様に動く。見てゐると眼が疲れるほど不規則に蠢いてゐる。
    漱石全集第五巻『三四郎』p.407

 明治末の地図上でも、急な団子坂の北側部分は緑色に塗られており、「崖及草生地」であった事がわかる。また、坂道の部分の道幅は、地図上でも細く描かれている。実際にも相当に狭い道幅だったのであろう。幅二間余りという当時の記述がある。

団子坂の菊人形(新撰東京名所図會(明治40年)より)


現在の団子坂を見上げる

現在の団子坂を見上げる

団子坂の菊人形見物に出かけた広田先生の一行は、千駄木町57番地の漱石邸の前を通り過ぎて、現在の大観音通り(白山上から団子坂へ通じる道)へ出た。

    又長い会話が出来かねる程、人がぞろぞろ歩く所へ来た。大観音の前に乞食が居る。
    漱石全集第五巻『三四郎』p.405

この記述は、道の規模が変わった事、即ち狭い道から賑やかな広い道への交差点に到達した事を示唆している。「また」とあるので、細い道を歩く前には賑やかな道を歩いていた事もわかる。それは本郷追分付近の本郷通りを意味しているのであろう。細い道とは、千駄木の漱石の家の前を通る細い道であろう。一行は、光源寺の大観音前の交差点に出て、大観音通り(千駄木通り)を団子坂へ向って進む。

明治40年頃の千駄木の通り(新撰東京名所図會(明治40年)より)


2005年の大観音通り。突き当たりが団子坂上。この写真撮影後、道路の舗装が新しくなった

団子坂上の四辻。薮下通り出口からの眺め。直進すれば保健所通りとなる。右折すれば団子坂。左折すれば大観音通り。この写真撮影後に、写真正面に新たな建築物が建てられた。現地を訪れると変容振りに驚くかもしれない