漱石が見た風景ーー野々宮の理科大学


○ 『三四郎』の中で漱石は次のように書く。

    「休暇中だから理科大学を尋ねても野々宮君は居るまいと思つたが、ーーー略ーーー 午後四時頃、高等学校の横を通つて弥生町の門から這入つた」
    岩波漱石全集第5卷『三四郎』p.295

明治37年に有名な写真家の小川一真が『東京帝国大学』という写真集を出している。その中に、理科大学の写真がある。当時の理科大学は、現在の理学部に相当する。

『東京帝国大学』小川一真(明治37年)より。この写真の撮影位置は、下り坂の具合からみて、現在の工学部6号館の横付近ではなかろうか。写真中央の辻の左側先に弥生門があると思われる。

(本図は国会図書館のホームページ画面であり、複製する場合には国立国会図書館の許諾が必要です)


同じアングルからの現在の理学部建物 ↑


    「小使に食つ付いて行くと四つ角を曲がつて和土(たゝき)の廊下を下へ居りた。世界が急に暗くなる。炎天で眼が眩んだ時の様であつたが少時すると瞳が漸く落ち付いて、四辺が見える様になつた。穴倉だから比較的涼しい。」
    岩波漱石全集第5卷『三四郎』p.296

この記述は理科大学の野々宮の地下実験室を訪れる時の描写である。大学の古い建物の場合は地下室といっても現在の我々が想像するような地下室ではなく、半地下室であろう。地下室には違いないが、部屋の窓の外には幅がそんなに広くない堀があり、そこから光がはいるようになっている。しかし地下の廊下には外界へ通じる窓はないから、一階から降りて行くと「急に暗くなる」のであろう。太陽があたらず、厚い壁に遮られているので、廊下の空気はひんやりしているのである。昭和四十年代には、さすがに明治ではなかろうが、戦後初期の状態を残したこうした地下実験室の雰囲気が東大物理学教室の建物には残っていたと聞く。
理科大学の建物の地面との境付近をよく見ると、窓らしき風景がある。理科大学の建物は当初から半地下方式だったと思われる。

同写真集より、当時の帝大構内の建物配置図を示す。

(本図は国会図書館のホームページ画面であり、複製する場合には国立国会図書館の許諾が必要です)


現在(2007年)の理学部前から眺めた弥生門。三四郎は弥生門を入って、この傾斜の緩い坂道を進み、写真の手前に位置する理科大学の野々宮を訪問した。