漱石が見た風景ーー九段坂上ーー漱石と楠緒子の天気予報付きの邂逅場所 (明治22年)


○ 『三四郎』の中で、広田先生は九段坂上の燈明台を話題にしている。漱石自身がこの燈明台を眺めていたのであろう。広田先生、与次郎、三四郎の三人が、先生の借家捜しの延長で田端界隈を散歩している時の会話である。

    「ーーー略ーーー君、九段の燈明台を知つてゐるだらう」と又燈明台が出た。「あれは古いもので、江戸名所図絵に出てゐる」
     「先生冗談云つちや不可ません。なんぼ九段の燈明台が旧いたつて、江戸名所図絵に出ちや大変だ」
     広田先生は笑ひ出した。実は東京名所と云ふ錦絵の間違だと云ふ事が解つた。
    漱石全集第五巻『三四郎』p.354

 上述した『三四郎』中の広田先生が燈明台を話題にした会話に先立って、重要な年数が『三四郎』中ではさりげなく記述されている。明治二十二年に葬儀の車列の中の娘を見た時の記述と同樣な手法である。

    「小川君、君は明治何年生れかな」と聞いた。三四郎は単簡に、
     「僕は二十三だ」と答へた。
    漱石全集第五巻『三四郎』p.354

 この問答は問答になっていない。与次郎が三四郎の生まれた年号を聞いているのに、三四郎は年齢を答えているからである。三四郎が数えて二十三歳である事は、名古屋で女と泊まった宿帳に記入している。こうしたちぐはぐな記述は意図的であると推測される。そこで、この数字には何か意味が籠められているのではないかと思い至る。この年齢は数えなので、漱石自身に当てはめれば明治二十二年を意味する。即ち、ここで漱石は、「明治二十二年の燈明台」と書いているのである。『三四郎』全体に楠緒子へのメッセージがちりばめられている事を考慮すれば、漱石は、ここで、通学途中での二人(漱石と大塚楠緒子)の出会いの場所と年を書いていると解釈出来る。九段の燈明台は通学途中の二人の天気予報付きの邂逅の目印として認識していた事を、漱石は示唆していると思われる。明治二十二年当時、漱石は喜久井町の自宅から神田の第一高等学校まで歩き、楠緒子は、麹町の自宅から、一ツ橋の女子職業学校へ通っていた。二人が毎朝定時刻に出合う場所が、この付近であったと推定される。

田安門前あたりから九段坂をみおろす風景は当時は上のようであった(最新東京名所写真帖(明治42年)より)。燈明台は、靖国通りの左側にあって、東京湾を見晴らしていた。

(本図は国会図書館のホームページ画面であり、複製する場合には国立国会図書館の許諾が必要です)


田安門前の歩道橋から九段坂をみおろす風景(2008年) ↑


田安門前あたりから九段坂をみおろす風景(2008年) ↑


九段下から九段坂を見上げるとこのようになる(東京景色写真版(明治26年頃)より)。坂上の中央やや右に燈明台が見える。人力車が何台も見える。楠緒子は、人力車でこの坂を往来した。

(本図は国会図書館のホームページ画面であり、複製する場合には国立国会図書館の許諾が必要です)


現在(2008年)の九段坂を見上げる

楠緒子の「あのかたの記」には次のような微細な記述が見られ、場所を特定するヒントを提供している。

    「九月三十日。 ああ、又けふもお目にかゝた。此頃は態と車に乗らずに歩いて学校へ往くものだから時間も違はずきつと綿屋の角でお目にかゝる。今日はほんとに擦れ違ふ様だつたから胸がどきどきして……知りもしない方なのに、何うして此様に忘れられなくなつたらう、ーーー略ーーー」

現在の燈明台はお堀の側にある。