『一夜』の中の若冲


  • 小説『一夜』中に、若冲の軸の風景が描写されている:

夏目漱石は明治38年に、短編小説『一夜』を発表した。その中に次の一節がある。


    床柱に懸けたる払子の先には焚き残る香の烟りが染み込んで、軸は若冲の蘆雁と見える。雁の数は七十三羽、蘆は固より数へ難い。

秋塘群雀図

伊藤若冲筆 動植綵絵より秋塘群雀図(左) 芦雁図(右) 三の丸尚蔵館

  • 拙書『謎解き 若き漱石の秘恋』の中で展開した謎解き結果によれば、「雁の数は七十三羽」という記述の裏には、大学院生時代(明治27年)の漱石の下宿であった法蔵院(小石川区表町73番地)がわかりやすい形で暗示されている。
     このように重要な数字なので、この記述の裏付けとなる伊藤若冲作の「蘆雁図」がどんなものであるのかに興味が湧く。これまでの調べによれば、「蘆雁図」で七十羽に及ぶ雁が描いてある若冲作品はなかなか見当たらない。筆者の努力不足を恥じ入るばかりであるが、どなたかご存知の方は是非御教示をお願い申し上げます。
     そんなわけで、これまでの調査過程で眼にとまった図を念頭において、ここでの話をすすめる事にしよう。
     その場合、鳥七十羽以上を描いた図として、「動植綵絵」の中の「秋塘群雀図」が候補に上がる。「塘」はおそらく「池」の意味なので、画題は「秋の池の雀の群れ」となろう。漱石が引用する「蘆雁図」の内容とは一致しないが、この図を一見すれば、空に舞う雀の群れは雁とまがう形と見えないこともない。同じく「動植綵絵」の中に雁一羽を描いた「芦雁図」が存在する。雁が落ちるばかりに下を目指す姿は、「秋塘群雀図」の上段に描かれた雀の方向性と似ていると見る事もできよう。記憶力の優れた漱石に対して失礼を承知の上で推論すれば、漱石が上の二図を念頭に置きながら、多少の修正を施した上で、小説中の文章を書いたとの解釈もありうる可能性がある。その場合、漱石が仕掛けた謎掛けの意図から重要なのは、「七十三羽」というその数そのものである。数えてみると、絵の中の雀の数は七十四羽。従って、漱石はある別の意味(当時の漱石の住所)を示唆する目的で、「七十四」ではなく、「七十三」という数字を使ったと推測されるのである。
     ところで、この文章中で漱石は重要な数字をあらわに書いている。あらわに書いた理由は、筆者の推測によれば、『一夜』の中に仕掛けた別の謎掛けの中に埋め込んだ数字を推測させる手がかりとする為である。この数字は、もう一つの謎掛けの答である漱石の恋人(大塚楠緒子)の住所と対になっていると推定される。その謎掛けの解法が難しいので、漱石は、自分の住所をあらわに書く事により、対比させるべき謎掛けの答が、恋人の住所であるとのヒントを与えているのであろう。従って、若冲が描いた鳥の数が、仮に七十三羽であったとしても、漱石はこれ幸いとばかりにその数字をそのまま使った事であろうとの推測も有力である。「秋塘群雀図」の場合には、七十四羽の中の白い一羽を、漱石は当時の恋人に見立てているという見方もできる。則ち、「七十三羽の中に混ざって白い一羽」が存在する。このように考えて、この図の構成は「法蔵院七十三番地に女が一人」いるという昔の思い出そのものではないかとのインスピレーションを漱石が感じた可能性が高いのではないか。
     更に、漱石がここに取り上げた二図を思い描いて『一夜』の中の文章を書いた事を前提にして、漱石は、「雀」と「雁」を何故に取り替えているのかについて考えてみよう。『一夜』を書いた当時の漱石は、昔の恋人に関して悪いイメージを持っていたと推定される(拙書参照)。具体的に言えば、自分は女に騙されたと考えていたのである。そして、女との縁談は、理由がわからぬままに破談になってしまったと思い、その裏には女の家族の何らかの策謀があったとも感じていた。それ故に、漱石は、「私は雀を雁と見誤ってしまった」、あるいは、「七十三羽の雀(73番地の漱石)に紛れ込んで来た場違いの白い雁(雀、楠緒子)」というような、現在の女に対するメッセージの意味を持たせ、雁が寝床とする蘆の部分、則ち女の家族に関しては、「蘆は固より数へ難い」と理解不能であるとの意味を込めたのである。
     明治38年の漱石は、かつての恋人の大塚楠緒子に対してこうしたメッセージを何故発したのか。大塚楠緒子がいくつかの彼女の文芸作品において、漱石に対する思いを切々と訴えて続けていた事に対する返答だったと推定される(詳しくは拙書参照)。
     繰り返しになりますが、筆者は『一夜』中の漱石の記述から若冲に興味を持ったレベルなので、七十三羽の雁が描かれている若冲作品が別途存在するのではないかとも考えています。そのような作品の存在について、御教示いただければ有り難く存じます。更に、漱石はどこで若冲の絵を見たのか(寺、展覧会あるいは画集?)について御存知の方、御教示宜しく御願い致します。
    (連絡先 e-mail: kozan3536@sebaika.sakura.ne.jp)

  • 漱石の住所を示唆する「七十三羽」に対比すべきもう一つの謎掛け部分を紹介しましょう。『一夜』の中の次の文章中に、若き漱石の恋人を示唆する謎掛けが隠されています。

    髯:「百二十間の廻廊に二百三十五枚の額が懸つて、其二百三十二枚目の額に書いてある美人のーーー
    女:「声は黄色ですか茶色ですか」と女がきく。
    髯:そんな単調な声ぢやない。色には直せぬ声ぢや。強いて云へば、ま、あなたの様な声かな」

    この部分には、漱石が思いを寄せた女性の住所が埋め込まれています。謎解きの詳細は『謎解き 若き漱石の秘恋』の第15章15節をご参照のほど。

    この謎掛けを解読した結果について、拙書では次のように記しています。

    『一夜』の登場人物は二人の男と美人の女である。二人の男は髯の有無で区別されている。ここで、 漱石は女の住所を謎掛けの形で『一夜』の中に織り込んでいたのである。その謎掛けを解いて得られ る数字は49、そして、もう一つ別の数字73が49と対になるように記述されている。この二つの数字は、楠緒子生家(麹町区一番町49番地)と法蔵院(小石川区表町73番地)を表している。従って、美人の女は楠緒子であり、髯ありの男は法蔵院に住む漱石を表す。
    当然ながら、髯なしの男は小屋と推定される。このように、漱石は法蔵院と関連させて楠緒子を示唆しているので、明治二十七年に法蔵院に出入りしていた女性は大塚楠緒子と推定される。
     ーーー略ーーー 一つの謎掛けでは偶然の一致だろうという疑問に対して、そんな事はないと言わんが如く漱石自身が執拗に繰り返して謎掛けを織り込んでいる。それらは本稿で順次解き明かしていくーーー略ーーー
    漱石はここで生涯に一回だけ相手の女の素姓を明らかにしていたのである。ーーー略ーーー